2017年10月13日金曜日

Bobby Jamesonのウィキペディア

概要

ロバート・パーカー・ジェイムソン(1945年4月20日ー2015年5月12日)はアメリカのシンガー・ソングライター。1960年代前半、一時的に大スターとして売り込まれ、後半には1965年にChris Lucey名義でリリースしたアルバム、Songs of Protest and Anti-Protestで熱狂的な支持者を惹きつけた。そのダークな歌詞と洗練されたアレンジメントは、支持者にLoveの1967年のアルバム、Forever Changesに通ずると言わしめた。数十年間、ジャイムソンについて、あるいは彼の素性についてはほとんどが知られておらず、また彼は音楽よりも、暴動に関わっていたことや自殺未遂をしたことなどで有名だった。


1963年にキャリアをスタートすると、ジェイムソンはビルボードやキャッシュボックスの入念なプロモーションキャンペーンで、次のポップミュージックの重大な現象として過剰に宣伝されることになった。その後5年間で彼はアメリカとイギリスの8つの異なるレコードレーベルから11枚のシングルをリリース。この時点で彼はBeach BoysやJan and Dean、そしてChubby Checkerのオープニングアクトをつとめ、またthe Monkeesからの加入のオファーを断った。1960年代半ばから70年代前半にかけ、ジェイムソンはロサンジェルスのシーンで活動し、Churt BoettcherやFrank Zappa、Crazy Horseのメンバーと仕事をしていた。この時期の間、彼はSunset Strip Riots(66年から70年代初期にかけてカリフォルニア州、ハリウッド、サンセット・ストリップで起こったヒッピーの暴動)に参加。1967年に発表されたこの暴動のドキュメンタリームービー、Mondo Hollywoodに主役の一人として登場し、「成功のチャンスを台無しにした誰かさん」という評価を集めた。Songs of Protest and Anti-Protest以降はCurt Boettcherとの共作Color Him In(1967)、カバー集のWorking(1969)の2枚のアルバムのみの発表となった。
ジェイムソンの人生はアルコール中毒や犯罪行為などによる個人的な不運によって変化した。彼は音楽業界に苛立ちと幻滅を募らせ、マネージャーや雇い主が経済的な報酬や印税を保証しなかったことや、いくつかの会社が彼の楽曲の知的財産権を違法に主張したことを申し立てた。1970年代のほとんどの間、彼は施設に収容されていたかホームレスだったが、最終的には禁酒に成功。1985年以降、彼は音楽業界を完全に離れ、長年の間死んだと噂されていた。2002年、Songs of Protest and Anti-Protestはジェイムソンの知らない間にリイシューされ、それに反応し彼は2007年に再び現れ、自叙伝的なブログやユーチューブの動画を投稿した。それらは彼が2015年に死ぬまで残された。

子供時代

ボビージェイムソンはイリノイ州のジェネヴァで生まれた。しかし10歳までは母と義理の父と兄弟とアリゾナ州のトゥーソンで暮らした。両親が離婚する前、彼と兄弟はギターを習い始め、複数のタレントコンテストに出演した。1962年にカリフォルニア州のグレンデールに移住する前、兄弟と母と様々な町で暮らした。

経歴

初期のシングルとプロモーション

1963年、彼はElliot Ingberをギターに迎え、ボビー・ジェイムソン名義で、最初のレコード"Let's Surf"を作った。
1964年、ハリウッドでDanny WhittenやBilly Talbot、Ralph Molina(のちのCrazy Horseのメンバー)とシェアハウスに住んでいる時、ジェイムソンは(トニー・アラモ)Tony Alamoと出会った。彼はジェイムソンのマネージャーとなり、彼をスターにすると約束した。アラモは音楽誌で大規模なプロモーションを仕掛け、19歳のジェイムソンを「世紀のスター」や「世界の次の現象」として宣伝した。ジェイムソンは後にこう語っている。「いくつかの理由から、あれは今でも僕にとっては謎のままだ。トニーは僕に言わずにビルボードやキャッシュボックスで僕を売り込んでいた。ある日、ハリウッドのコーヒーショップに突然現れた彼は2つの雑誌を持っていて、その中に僕がいたんだ。僕たちには何の契約も、何の合意も、そしてその記録も何もなかった。しかしその雑誌には僕がいた。どうやって言い表したらいいのかわからないよ。誰でもない人になる気味の悪さは。さらに続けてこんなことも起こった。その広告は9週間、最新号が出るたびに2倍のサイズで続いたんだ。半ページ、3分の2ページ、そしてフルページ、という風にね。8週目にビルボードだけに載せられた原稿なんて4ページもあるフルカラーの折り込みページだったよ」。
ジェイムソンはアラモのレーベル、タラモからリリースするシングル、"I'm So Lonely"/"I Wanna Love You"を録音した。2曲とも彼が作詞した曲だった。そのレコードは中西部とカナダで局地的にヒットした。その結果、彼はThe Beach BoysやChubby Checkerのオープニングアクトを務め、そしてAmerican Bandstand(1952年から89年まで放送されていた音楽番組)に出演した。しかし、次の"Okay Fanokey Baby"はそこまでの成功はなく、ジェイムソンはアラモの人を操るようなふるまいから解放されたがっていた。

すでにイギリスで成功していたP.J. Probyの友達として、彼はロンドンへ飛び立った。ロンドンではアンドリュー・ルーグ・オールドハムが彼を録音することに興味を示していた。そこで彼は、オールドハムとキース・リチャーズとの共作、"All I Want Is My Baby"や、おそらくセッションギタリストだったジミー・ペイジ、さらにミック・ジャガーとキース・リチャーズとの共作"Each and Every Day of the Year"を録音した。彼は片手だけに手袋をはめるというネタでReady Steady Go!というテレビ番組に特集され、その出演後はロンドンに滞在した。1965年にはクリス・ピアーズとクリス・ブラックウェルの作ったイギリスのレーベルのために、ハリー・ロビンソンプロデュースの"Rum Pum"/"I Wanna Know"を録音した。しかし、それもまた成功には及ばず、ジェイムソンはロサンジェルスに戻った。

Songs of Protest and Anti-Protest 


カリフォルニアへの帰還後、彼は以前Vee-Jay RecordsにいたRandy Woodによって設立された、Mira Recordsにアプローチを受けた。子会社のSurrey Recordsからリリースするために、Chris Duceyという別のしんがーソングライターと共に、アルバム"Songs of Protest and Anti-Protestを録音。アルバムのジャケットはすでに印刷されており、Duceyの名前と曲名が入っていたが、ブライアン・ジョーンズの写った写真が使われていた。しかし、一方でDuceyは別の会社と別の契約に入っており、それはミラレコーズはDuceyのレコードをリリースできないということを意味していた。そこでレーベルはジェイムソン(彼はこの時点で無一文のホームレスで人々のソファに眠っていた(?))にDuceyの曲のタイトルに合わせた作詞と作曲を頼み、"Ducey"の名前が"Lucey"になるようにアルバムのジャケットをオーバープリントするように手配した。2週間以内にジェイムソンは曲を書き上げ、プロデューサーのMarshall Leib(元The Teddy Bearsのメンバーでフィル・スペクターの友人)と共にレコーディング。レコードは歓迎を受けぬ中リリースされ、ジェイムソンはソングライターとしてクレジットされたが、レコーディングにかかる彼の法的な権利について合意はなかった。それはのちにイギリスのJoyというレーベルからジェイムソン名義でToo Many Moringsというタイトルでリリースされた。
しかし、Songs of Protest and Anti-Protestは商業的に宣伝されず、1965年の最初のリリース時には目にもかけられなかったが、数年後には強力な評価を得た。Allmusic誌のDean McFarlaneによると「強く熱望されたこのサイケデリック・ポップの原石はしばしばLoveのForever Changesに比較される。洗練されたアレンジの緻密な探検、もの悲しく歪んだリリシズムは当時には少し勇敢過ぎたかもしれない。果敢なブルース、異国情緒、ほとんどラウンジのようなアレンジメント、そして澄んだポップサイケデリア。その美しさはその徹底的な崩壊と100万と1つのアイディアのコラージュの中にある」。またRichie Unterbergerはこう書いた。「Songs of Protest and Anti-Protestは、Loveとの類似性を明白に備えた、当時ほとんど存在することのなかったアルバムの1つである。ボーカルとソングライティング、メロディックで物足りないようなフォークロックのコードチェンジ、時々垣間見えるラテンのテンポや荒々しいフォークブルースの力強いビート、突き詰めるようでぼんやりした歌詞、そして変人のようなプロダクションはArthur Leeを強く想起させる」。レコードコレクターにとってのその魅力の一部にはその曖昧さや作者についてほとんどわからないということがあった。ジェイムソン自身はこう言及している。「(あのアルバムが)作られた時、あれは使い捨てのアルバムだった。そうであったろうがなかろうが、それは事実だ。ここ最近、あの作品は命を吹き込まれたようだし、僕はそれに感謝してる。でも本当の文脈の中で評価されることが必要だ。どのようにして、作られた時には決して掴めなかったポジションに対する価値にまで評価が上がってしまったのかを見るべきだ」。

"ベトナム"とMond Hollywood


1966年の早いうちに、ジェイムソンは彼の名義でミラレコーズと、シングル、"Vietnam"/"Metropolitan Man"を録音した。これにあたりジェイムソンはThe Leavesのメンバー(この人物はジェイムソンの曲"Girl From the East"を彼らのアルバム"Hey Joe"に収録している)によって復帰させられた。2010年にライターのJohn Savageは"Vietnam"について、「ガレージパンクのオールタイムクラシックだ。1966年初期からの戦争に対する激しい声明はすでにコントロールの外で渦を巻いている」と描写した。しかし、当時レコードはほとんど宣伝されず、放送されることもなかった。その理由は、ジェイムソンによると、その感傷性は議論を呼んでしまうと見られたためだった。そして、ジェイムソン自身が成功のチャンスを失っていたため、という理由もあった。
ジェイムソンは他の多数の出演者と共に、Robert Carl Cohen監督の1967年の実験的なドキュメンタリー映画、Mondo Hollywoodで特集された。その中で彼は彼の信念とキャリアについて語った。その映画には当時のガールフレンド、Gail Sloatmanも一緒に映っており、"Metropolitan Man"をレコーディングした。また、彼は1967年のCBSのドキュメンタリー、Inside Pop: The Rock Revolutionでも名場面を作っている。


Zappa, Color In Him, and Woring!


1966年の後半、ジェイムソンはMiraの別な子会社、Penthouse Labelのために2枚のシングルを録音している。"Reconsider Baby"と"Gotta Find My Roogalator"の両シングルとも、クレジットはないがフランク・ザッパがアレンジとプロデュースを手がけた。ザッパはギターも演奏し、参加ミュージシャンは他にCarol KayeとLarry Knecthelなどを含んでいた。ジェイムソンはまた、Current Recordsでシングル"All Alone"もレコーディングした。しかし、どれも商業的に成功することはなかった。そのほぼ同時期に、彼はThe Monkeesに加入することも検討されたが、そのチャンスは求めないと決意した。そして一時はベトナム戦争反対運動にすすんで加わった。当時のある報道は「彼の無遠慮に発言する姿勢とSunset Strip riotsへの積極的な参加は、彼にサンセットストリップの市長(Mayer of Sunset Strip)という名誉的な異名をもたらした」と述べた。
彼はアルバム"Color In Him"で、アレンジャー兼プロデューサーのCurt Boettcher共仕事をした。シンプルにJameson名義でクレジットされたそのアルバムは、フランク・ザッパとのコネで1967年にVerve Recordsからリリースされた。続いて同じ年にVerveから"New Age"と"Right By My Side"の2枚のシングルがリリースされた。しかし、Verveはその後のジェイムソンのレコーディングはリリースを望まず、彼は1968年にレーベルを去った。その後あたりからジェイムソンはLSDやその他のドラッグ、アルコールの使用を増やしていき、27回逮捕され、時には刑事を脅迫したという罪にも問われた。1968年に彼はRCA Recordsという小さなレーベルのために、James BurtonやJerry Scheff、Red と共に最後のアルバム"Working!"をレコーディングした。

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