2018年5月12日土曜日

5月19日(土)@新宿カールモール



5月19日(土) FUTURE FOLK VISION

[場所]新宿カールモール
[開場]18:00 [開始]18:30
[料金]1500円+1d

[出演]ゆめであいましょう
    スローグッドバイ
    んミィ
    花恵
    Alchemy
    どろうみ



2018年3月17日土曜日

wake



SEIYUで見つけた曲。John Lennonのカバー。ビートのせいなのか、コーラスの一部が完全にPrimal Screamみたいで面白い。この曲を聴いてCDを買ったけど壊れてて全く再生できなかった(そのあとApple Musicで聴いたけど他の曲はよくなかった)。




2011年は生まれて初めて自分のパソコンを購入し、インターネット環境を手に入れたばかりの年で、SoundCloudやBandcampをまだ信じていた。Free DLを紹介するようなブログを頻繁にチェックして音源を集めていた。その中で見つけた四畳半ボサノバ(?)の女性シンガーソングライター。最近、iTunesのシャッフル再生で久々に聴いて、いいな……と思って検索をかけたらまだ曲を作っているようで、しかもめちゃくちゃよくて感動。この曲は途中で調が変わる?感じがすごい。




私がよく言っている"知らないパレード"というのはこの曲からの引用。"Strange"を"知らない"と訳すのはどうなの、と思うが、"There was a strange parade that let me go outside"という歌詞は人生のすべてを表していると感じた。使われているコードが全部メジャーコードだけのせいなのか初めて聴いた時とても不思議な感じがした。Deerhunterを初めて聴いた時の不思議な感じ。あと編成はバンドっぽいのに全然バンド感がないのも孤独に曲を作っていた自分に響いた。多分違うと思うけど最後"I was a strange parade"って言ってる気がしてそうだったらいいな。




マクドナルドの有線でかかってて知った。2017年の冬、The Fallにハマる前はこのバンドをよく聴いていた。Kurt Heasleyという人だけがコンスタントなメンバーで他は定期的に入れ替わるらしく、Wikiの過去メンバー欄が膨大。ライブをやる時、メンバーを集めるのに苦労していたので、メンバーが流動的なバンドにはすぐ共感してしまう。リーバイスのCMに使われたり、過去メンバーにAriel Pinkが入っていたりとわりと有名のよう。初期はマイブラフォロワーだったらしいのだが、コード進行が本当にKevin Shieldsのようですごい。しかもリバース・リバーヴ×トレモロアームの変なギターも90年代前半からちゃんと完コピできててフリッパーズ・ギター並の才能を感じる。この"Socs Hip"という曲は、その後、The KinksなどのUK Classicの影響が強くなってきた頃の曲。コーラスから始まり、ちょっと休んでバース1に移るのだが、2回目のコーラスまで3〜4種類くらいのプレコーラスが用意されていて「いつになったらコーラスにたどりつくんだろう」と果てしなさに酔っぱらう。しかも、メロディーが変わる前に「そろそろコーラスか?」というような煽りが入れられてて意図的にやってるような感じがする。



よくわからない人。ニュージーランド人なのか。音楽理論のことがほぼわからないのでうまく説明できないけど、3拍子の曲なのにドラムは4拍子みたいに打ち込まれてて変なリズムになってるのが面白い。


 
スペインの70年代のポップソングらしい。ユーミン感がある。この曲もコーラスから始まるのだけど、2回目のコーラスの前のコード進行(A#7M Cm7 C#7M D#m7 F7)が不自然にサイケデリックで面白い。今年はこんな曲が作りたい。

2018年1月27日土曜日

知らない家路-2月24日@ひかりのうま(大久保

知らない家路
2月24日@ひかりのうま(JR大久保駅南口を出たら右に曲がってすぐ。キューピッドの看板が目印です)

■概要
オープン19:00/スタート19:30
入場料 ¥2,000(+1ドリンクの注文が必要です)

■出演
inochi
にゃにゃんがプー
んミィ

■inochi

またinochiが仙台からやってきます。3年くらい前、inochiがまだ皆木さんのソロプロジェクトだった頃に出された音源集を聴き、まるで日記のような曲たちだな、と思いました。向こうは忘れてるかもしれませんが、「大きなもののことは考えずに日記を書くように何でもやれたらいいし、そうしたいよね」というようなことを話したことを覚えています。これは今でも辛い時に思い出して「そうだよね……」という気持ちになる感動エピソードとして私の中で大事にされています。最近「音楽を奏でることの原始的な喜び」ということにハマっているのですが、inochiもそれにハマっているような気がします。たぶん"白夜"は今ネット上で確認できるinochiの曲で一番新しい曲なのではないかと思うのですが(違ったらごめんなさい)、ハードロックみたいなアルペジオから始まり、展開したあとはフラメンコとブルースの合いの子みたいな調になっていくところが面白いです。ただ楽しさにだけ導かれて演奏しているように感じます。

■にゃにゃんがプー

 inochiの人が「にゃにゃんがプーさんとやれたらその日死んでもいい」と言っていたのでにゃにゃんがプーさんに声をかけて出てもらうことになりました。にゃにゃんがプーさんと知り合った時は、彼女はまだにゃにゃんがプーとして音楽をやっていなかったと思うのですが(違ったらすみません)、3年前に突如江古田フライング・ティーポットでの"ニュー餅太郎"のライブ映像が公開された時にこれはずるいなと思いました。「8時なのでやります」という始め方と、恥ずかしさを逆手にとって自信に変えながら動いてるような踊りが印象に残っています。にゃにゃんがプーさんについては曲がすごすぎて何も言うことがないです。去年サインをもらったのですがもらって本当に良かったなと思います。ひかりのうまで観られることが楽しみです。

■んミィ


んミィは去年N Creamyでもやってくれたどろうみの関本くんやHikaru Yamadaさん、  さん、伊藤に加え、今回はUccelliさんとやります(違ったらすみません)。今まで作った私の曲の中で最高だと思ってる"知らないパレード"や"メキシコ"がとてもいい出来でやれることに感動です。去年10月にmimippiiiやmukuchiとライブをやろうとした時はウンコを下痢で煮たような曲しか作れないことに絶望して「もう無理……できない……」と参加しないことになってしまいましたが(本当は当日行ったらやりたくなってみんな帰った後に数曲やった)、今回は楽しみな気持ちでやれるのでまずそこが嬉しいです。いろんな人に来て欲しいです。

2017年11月29日水曜日

未明の家路@Sendai Station Lounge-16.09.17



未明の家路@Sendai Station Lounge(2017年9月16日)の録音です。

http://www.mediafire.com/file/ai0gj75p8la0cog/%28%E6%9C%AA%E6%98%8E%E3%81%AE%E5%AE%B6%E8%B7%AF%40Sendai+Station+Lounge-16.09.17%29.zip

1.ひかりは彷徨わない
2.ストレンジ・ハート(弾き語り)
3.スナッフビデオ
4.出かけよう
5.Estranged Scenes
6.放火
7.知らないパレード (弾き語り)
8.メキシコ(弾き語り)
9.知らないパレード
10.メキシコ
11.ひかりのうた with inochi
12.Hallogallo(Neu!) with inochi and 荒川淳

2017年10月13日金曜日

Bobby Jamesonのウィキペディア

概要

ロバート・パーカー・ジェイムソン(1945年4月20日ー2015年5月12日)はアメリカのシンガー・ソングライター。1960年代前半、一時的に大スターとして売り込まれ、後半には1965年にChris Lucey名義でリリースしたアルバム、Songs of Protest and Anti-Protestで熱狂的な支持者を惹きつけた。そのダークな歌詞と洗練されたアレンジメントは、支持者にLoveの1967年のアルバム、Forever Changesに通ずると言わしめた。数十年間、ジャイムソンについて、あるいは彼の素性についてはほとんどが知られておらず、また彼は音楽よりも、暴動に関わっていたことや自殺未遂をしたことなどで有名だった。


1963年にキャリアをスタートすると、ジェイムソンはビルボードやキャッシュボックスの入念なプロモーションキャンペーンで、次のポップミュージックの重大な現象として過剰に宣伝されることになった。その後5年間で彼はアメリカとイギリスの8つの異なるレコードレーベルから11枚のシングルをリリース。この時点で彼はBeach BoysやJan and Dean、そしてChubby Checkerのオープニングアクトをつとめ、またthe Monkeesからの加入のオファーを断った。1960年代半ばから70年代前半にかけ、ジェイムソンはロサンジェルスのシーンで活動し、Churt BoettcherやFrank Zappa、Crazy Horseのメンバーと仕事をしていた。この時期の間、彼はSunset Strip Riots(66年から70年代初期にかけてカリフォルニア州、ハリウッド、サンセット・ストリップで起こったヒッピーの暴動)に参加。1967年に発表されたこの暴動のドキュメンタリームービー、Mondo Hollywoodに主役の一人として登場し、「成功のチャンスを台無しにした誰かさん」という評価を集めた。Songs of Protest and Anti-Protest以降はCurt Boettcherとの共作Color Him In(1967)、カバー集のWorking(1969)の2枚のアルバムのみの発表となった。
ジェイムソンの人生はアルコール中毒や犯罪行為などによる個人的な不運によって変化した。彼は音楽業界に苛立ちと幻滅を募らせ、マネージャーや雇い主が経済的な報酬や印税を保証しなかったことや、いくつかの会社が彼の楽曲の知的財産権を違法に主張したことを申し立てた。1970年代のほとんどの間、彼は施設に収容されていたかホームレスだったが、最終的には禁酒に成功。1985年以降、彼は音楽業界を完全に離れ、長年の間死んだと噂されていた。2002年、Songs of Protest and Anti-Protestはジェイムソンの知らない間にリイシューされ、それに反応し彼は2007年に再び現れ、自叙伝的なブログやユーチューブの動画を投稿した。それらは彼が2015年に死ぬまで残された。

子供時代

ボビージェイムソンはイリノイ州のジェネヴァで生まれた。しかし10歳までは母と義理の父と兄弟とアリゾナ州のトゥーソンで暮らした。両親が離婚する前、彼と兄弟はギターを習い始め、複数のタレントコンテストに出演した。1962年にカリフォルニア州のグレンデールに移住する前、兄弟と母と様々な町で暮らした。

経歴

初期のシングルとプロモーション

1963年、彼はElliot Ingberをギターに迎え、ボビー・ジェイムソン名義で、最初のレコード"Let's Surf"を作った。
1964年、ハリウッドでDanny WhittenやBilly Talbot、Ralph Molina(のちのCrazy Horseのメンバー)とシェアハウスに住んでいる時、ジェイムソンは(トニー・アラモ)Tony Alamoと出会った。彼はジェイムソンのマネージャーとなり、彼をスターにすると約束した。アラモは音楽誌で大規模なプロモーションを仕掛け、19歳のジェイムソンを「世紀のスター」や「世界の次の現象」として宣伝した。ジェイムソンは後にこう語っている。「いくつかの理由から、あれは今でも僕にとっては謎のままだ。トニーは僕に言わずにビルボードやキャッシュボックスで僕を売り込んでいた。ある日、ハリウッドのコーヒーショップに突然現れた彼は2つの雑誌を持っていて、その中に僕がいたんだ。僕たちには何の契約も、何の合意も、そしてその記録も何もなかった。しかしその雑誌には僕がいた。どうやって言い表したらいいのかわからないよ。誰でもない人になる気味の悪さは。さらに続けてこんなことも起こった。その広告は9週間、最新号が出るたびに2倍のサイズで続いたんだ。半ページ、3分の2ページ、そしてフルページ、という風にね。8週目にビルボードだけに載せられた原稿なんて4ページもあるフルカラーの折り込みページだったよ」。
ジェイムソンはアラモのレーベル、タラモからリリースするシングル、"I'm So Lonely"/"I Wanna Love You"を録音した。2曲とも彼が作詞した曲だった。そのレコードは中西部とカナダで局地的にヒットした。その結果、彼はThe Beach BoysやChubby Checkerのオープニングアクトを務め、そしてAmerican Bandstand(1952年から89年まで放送されていた音楽番組)に出演した。しかし、次の"Okay Fanokey Baby"はそこまでの成功はなく、ジェイムソンはアラモの人を操るようなふるまいから解放されたがっていた。

すでにイギリスで成功していたP.J. Probyの友達として、彼はロンドンへ飛び立った。ロンドンではアンドリュー・ルーグ・オールドハムが彼を録音することに興味を示していた。そこで彼は、オールドハムとキース・リチャーズとの共作、"All I Want Is My Baby"や、おそらくセッションギタリストだったジミー・ペイジ、さらにミック・ジャガーとキース・リチャーズとの共作"Each and Every Day of the Year"を録音した。彼は片手だけに手袋をはめるというネタでReady Steady Go!というテレビ番組に特集され、その出演後はロンドンに滞在した。1965年にはクリス・ピアーズとクリス・ブラックウェルの作ったイギリスのレーベルのために、ハリー・ロビンソンプロデュースの"Rum Pum"/"I Wanna Know"を録音した。しかし、それもまた成功には及ばず、ジェイムソンはロサンジェルスに戻った。

Songs of Protest and Anti-Protest 


カリフォルニアへの帰還後、彼は以前Vee-Jay RecordsにいたRandy Woodによって設立された、Mira Recordsにアプローチを受けた。子会社のSurrey Recordsからリリースするために、Chris Duceyという別のしんがーソングライターと共に、アルバム"Songs of Protest and Anti-Protestを録音。アルバムのジャケットはすでに印刷されており、Duceyの名前と曲名が入っていたが、ブライアン・ジョーンズの写った写真が使われていた。しかし、一方でDuceyは別の会社と別の契約に入っており、それはミラレコーズはDuceyのレコードをリリースできないということを意味していた。そこでレーベルはジェイムソン(彼はこの時点で無一文のホームレスで人々のソファに眠っていた(?))にDuceyの曲のタイトルに合わせた作詞と作曲を頼み、"Ducey"の名前が"Lucey"になるようにアルバムのジャケットをオーバープリントするように手配した。2週間以内にジェイムソンは曲を書き上げ、プロデューサーのMarshall Leib(元The Teddy Bearsのメンバーでフィル・スペクターの友人)と共にレコーディング。レコードは歓迎を受けぬ中リリースされ、ジェイムソンはソングライターとしてクレジットされたが、レコーディングにかかる彼の法的な権利について合意はなかった。それはのちにイギリスのJoyというレーベルからジェイムソン名義でToo Many Moringsというタイトルでリリースされた。
しかし、Songs of Protest and Anti-Protestは商業的に宣伝されず、1965年の最初のリリース時には目にもかけられなかったが、数年後には強力な評価を得た。Allmusic誌のDean McFarlaneによると「強く熱望されたこのサイケデリック・ポップの原石はしばしばLoveのForever Changesに比較される。洗練されたアレンジの緻密な探検、もの悲しく歪んだリリシズムは当時には少し勇敢過ぎたかもしれない。果敢なブルース、異国情緒、ほとんどラウンジのようなアレンジメント、そして澄んだポップサイケデリア。その美しさはその徹底的な崩壊と100万と1つのアイディアのコラージュの中にある」。またRichie Unterbergerはこう書いた。「Songs of Protest and Anti-Protestは、Loveとの類似性を明白に備えた、当時ほとんど存在することのなかったアルバムの1つである。ボーカルとソングライティング、メロディックで物足りないようなフォークロックのコードチェンジ、時々垣間見えるラテンのテンポや荒々しいフォークブルースの力強いビート、突き詰めるようでぼんやりした歌詞、そして変人のようなプロダクションはArthur Leeを強く想起させる」。レコードコレクターにとってのその魅力の一部にはその曖昧さや作者についてほとんどわからないということがあった。ジェイムソン自身はこう言及している。「(あのアルバムが)作られた時、あれは使い捨てのアルバムだった。そうであったろうがなかろうが、それは事実だ。ここ最近、あの作品は命を吹き込まれたようだし、僕はそれに感謝してる。でも本当の文脈の中で評価されることが必要だ。どのようにして、作られた時には決して掴めなかったポジションに対する価値にまで評価が上がってしまったのかを見るべきだ」。

"ベトナム"とMond Hollywood


1966年の早いうちに、ジェイムソンは彼の名義でミラレコーズと、シングル、"Vietnam"/"Metropolitan Man"を録音した。これにあたりジェイムソンはThe Leavesのメンバー(この人物はジェイムソンの曲"Girl From the East"を彼らのアルバム"Hey Joe"に収録している)によって復帰させられた。2010年にライターのJohn Savageは"Vietnam"について、「ガレージパンクのオールタイムクラシックだ。1966年初期からの戦争に対する激しい声明はすでにコントロールの外で渦を巻いている」と描写した。しかし、当時レコードはほとんど宣伝されず、放送されることもなかった。その理由は、ジェイムソンによると、その感傷性は議論を呼んでしまうと見られたためだった。そして、ジェイムソン自身が成功のチャンスを失っていたため、という理由もあった。
ジェイムソンは他の多数の出演者と共に、Robert Carl Cohen監督の1967年の実験的なドキュメンタリー映画、Mondo Hollywoodで特集された。その中で彼は彼の信念とキャリアについて語った。その映画には当時のガールフレンド、Gail Sloatmanも一緒に映っており、"Metropolitan Man"をレコーディングした。また、彼は1967年のCBSのドキュメンタリー、Inside Pop: The Rock Revolutionでも名場面を作っている。


Zappa, Color In Him, and Woring!


1966年の後半、ジェイムソンはMiraの別な子会社、Penthouse Labelのために2枚のシングルを録音している。"Reconsider Baby"と"Gotta Find My Roogalator"の両シングルとも、クレジットはないがフランク・ザッパがアレンジとプロデュースを手がけた。ザッパはギターも演奏し、参加ミュージシャンは他にCarol KayeとLarry Knecthelなどを含んでいた。ジェイムソンはまた、Current Recordsでシングル"All Alone"もレコーディングした。しかし、どれも商業的に成功することはなかった。そのほぼ同時期に、彼はThe Monkeesに加入することも検討されたが、そのチャンスは求めないと決意した。そして一時はベトナム戦争反対運動にすすんで加わった。当時のある報道は「彼の無遠慮に発言する姿勢とSunset Strip riotsへの積極的な参加は、彼にサンセットストリップの市長(Mayer of Sunset Strip)という名誉的な異名をもたらした」と述べた。
彼はアルバム"Color In Him"で、アレンジャー兼プロデューサーのCurt Boettcher共仕事をした。シンプルにJameson名義でクレジットされたそのアルバムは、フランク・ザッパとのコネで1967年にVerve Recordsからリリースされた。続いて同じ年にVerveから"New Age"と"Right By My Side"の2枚のシングルがリリースされた。しかし、Verveはその後のジェイムソンのレコーディングはリリースを望まず、彼は1968年にレーベルを去った。その後あたりからジェイムソンはLSDやその他のドラッグ、アルコールの使用を増やしていき、27回逮捕され、時には刑事を脅迫したという罪にも問われた。1968年に彼はRCA Recordsという小さなレーベルのために、James BurtonやJerry Scheff、Red と共に最後のアルバム"Working!"をレコーディングした。

2017年4月15日土曜日

『世界は私にふさわしいだろうか?』

1.駐車場
2.メキシコ
3.最後の海の歌
4.川
5.知らないパレード

400円(印刷代の都合で500円になるかもしれません……)

4月29日に10枚くらい売る予定です。