Nullified Memories' Institution
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2026年5月17日
From Relationship To Juxtaposition
2026年5月16日
モスクワ・メモ
モスクワ・メモ
Svetlana Boym 'The Future of Nostalgia' のメモ
蘇る同志たち
1991年8月、ゴルバチョフが進めるペレストロイカに不満を持ったソ連の高官たちはクーデターを起こした。クーデターに反対するために行われたデモでは、人びとはチェーカーの初代長官ジェルジンスキーやソヴィエトの父レーニンの像を破壊し、ペレストロイカ以前の体制への回帰にノーを突きつけた。
ジェルジンスキー像はゴーリキー公園で倒された。レーニン像はタリンでは倒され、キエフでは剥ぎ取られ、檻に入れられた。唯一残ったのは彼のブーツだけだった。倒された像たちは最終的に同公園内の中央芸術会館の近くに移され、横たえられたまま腐敗するまで放置された。
1997年、ジェルジンスキー同志の像は、レーニンやスターリン、ブレジネフの像とともに、再び起き上がっていた。
マネージ広場ショッピングモール
トヴェルスカヤ通りはクレムリンや赤の広場から最も近い大通りである。その出発地点となっているマネージ広場は、古くから軍事パレードの開催地だった。
1991年のデモでは、そういった歴史に異議を唱えるように、この広場にバリケードがつくられ、多くの人びとが集まった。
モスクワ市長ユーリー・ルシコフは、救世主ハリストス大聖堂やポクロンナヤの丘にある戦勝記念公園の再建などを含む再開発の一環として、この地にヨーロッパ最大の地下ショッピングモールを作った。
1999年8月31日、このショッピングモールで爆破テロが発生した。この事件を皮切りにモスクワを中心とした複数の都市で同様のテロが起こるようになった。
モスクワ850周年記念式典
モスクワが記念日を祝うようになったのは比較的最近のことのようだ。モスクワが「年代記」で初めて言及されたのは、ユーリー・ドルゴルーキーの統治時代であった1147年に「新しい巨大な要塞がモスクワに建設された」という部分だ。曖昧な表現だが、これをもってユーリー・ドルゴルーキーはモスクワの開祖として扱われることになった。1847年には、アレクサンドル2世によりモスクワ700周年を祝う行事が開催された。これがモスクワ建都を記念する初めての行事だった。その次は、第二次世界大戦で歴史的な勝利をおさめたあとである1947年にスターリンによって行われた800周年記念行事だった。モスクワの伝統は、勝利や何か壮大なもののために、再発明されたものだった。
60年代後半、フルシチョフによってもたらされたモダン様式に反対し、新しいロシア的な建築に対する関心が高まった。大きな村としてのモスクワではなく、居心地がよく、気の置けない「小さなモスクワ」を求めた。建築をめぐる議論では、「コンテクスト」や「環境」といった言葉が頻出するようになった。スターリンやフルシチョフに汚され、再定義される前の、雑多なコンテクストが街をいきいきとさせていた時代に人びとの視線は向かっていった。
市長ルシコフによって企画されたモスクワ850周年記念式典は、ポスト・ソヴィエト期における最も壮大な記念行事であった。この式典は、「記憶や悲痛に関して非公式に向き合うことや都市が自然に変容していくことを終わらせようとするものだった。変化の時代やペレストロイカの時代、文化浄化や過去を悼む営み、現在や未来について議論する時間は、取り返しがつかないほど終わったように見えた」。*
*P94
countermemory──抵抗する記憶
ミラン・クンデラの『笑いと忘却の書』には、このようなエピソードが登場する。失脚した指導者の姿を、歴史資料となる写真から消し去り、彼の存在をなかったことにしようとしたとする。しかし、その編集はうまくいかず、ファーのついた帽子の一部など、彼に関わる一部分は残る。さらにそのファーのついた帽子は、おそらく他の政治家も身につけている。この帽子を目にした人は、きっと彼を思い出すだろう。そうして、この帽子は、抵抗する記憶のトリガーとして残り、公式の記憶から消されたものを示しつづける。
抵抗する記憶は直接仲間を見つけ出して連帯させるのではなく、暗に共犯意識を共有させる。「忘れられたファーの帽子」のようなものは誰の過去の中にもあり、その人物の現在を構成している。
抵抗する記憶は、単なるもう一つの真実やテクストの集積ではなく、異なる読みの実践でもある。曖昧さ、アイロニー、二重発話、秘密のイントネーションを駆使し、公式の官僚制度や政治的なディスクールに違和を示す、読解の実践なのである。P61
「これは、文字による経験ではなく、生き延びる人の道具であり、批評的な省察の基礎である」*。強制収容所やスターリンの大粛清の歴史を暴いたのはカウンターメモリーの実践者たちだった。彼らは国家権力から独立した「内面の自由」、たとえ獄中にいようとも成し遂げられるような何か、を志向していた。
抵抗する記憶はなんらかの機関ではなく、個人や非公式なネットワーク、個人的なつながりに依っている。
1812年のクリスマスイブ、同年のナポレオン戦争における偉大な勝利を記念して、アレクサンドル一世は大聖堂の建設を命じた。デザインについてはスウェーデン人の建築家アレクサンダー・ヴィットベルクが任せられた。彼は「全キリスト教の魂に」捧げる、ローマのサン・ピエトロよりも壮大な聖堂を夢見ていた。力強く領土を拡大していき、西ヨーロッパにおいてもリーダーシップを見せはじめたロシアを讃える石碑となるはずだった。
しかし、計画は実現せず、建築家は国家財産の横領の罪で非難され、亡命するに至った(追放された?)。この大聖堂はロシアにお馴染みの紙上のユートピア、ペーパー・アーキテクチャーとなった。
1839年、ニコライ一世は、大聖堂の建設のためにスウェーデンにバックグラウンドを持つ別の建築家コンスタンチン・トンを選んだ。彼は古代ビザンチンに回帰するようなロシア的なスタイルを約束した。ツァーリはこの新しい大聖堂の建設地として、モスクワ川を見晴らす丘の上にあり、さらにクレムリンからほど近い、壮大な場所を選んだ。しかし、そこにはすでに貴重な古いロシアの建築物であるアレクセーエフ修道院が建っていた。ツァーリの命令でこの修道院は撤去され、その44年後となる1883年、アレクサンドル三世の統治下で、ロシア最大の聖堂、救世主ハリストス大聖堂が完成した。
ロシアの美しさと偉大さの象徴となるチャイコフスキーの『1812年』の初演は、1882年8月、建設中だった大聖堂の外で行われた。
大聖堂は当初、東洋的あるいは西洋的すぎると批判された。また、品がない、成金趣味だと言われることもあった。しかし、その後は人々の生活の舞台へと溶け込んでいった。ロトチェンコの有名な写真『階段』はこの大聖堂で撮影された。
その後、1920年代、1930年代にソヴィエト連邦による宗教撲滅キャンペーンが開始されると、大聖堂は強く批判されることになった。そんな流れの中、スターリンがこの土地を気に入り、「ソヴィエト宮殿」の建設地として選んだ。
1931年、救世主ハリストス大聖堂は装飾品を回収された上で、爆破された。
ソヴィエト宮殿は、ハリストス大聖堂の鏡像のような存在となった。古代エジプトやロシア正教、アメリカの高層ビルから自由に引用したデザイン、十字架の代わりのレーニン像をもって、ソヴィエトの無神論軍事イデオロギーを讃えるものとなるはずだった。
眺める者から現在を完全に忘却させるために、未来の完全さとはるか遠い過去が融合した。
しかし、ソヴィエト宮殿も紙上のユートピアとなる運命にあった。膨大な労働者が駆り出されたものの、土台を作ることさえままならず、第二次世界大戦が起こった。大地に巨大な穴があけられたまま20年の月日が流れた。湿気を放つこの穴の周りには、やがて酔っ払いや娼婦がたむろするようになった。
1950年代には、この敷地にソヴィエト最大(ソヴィエトの報道によれば世界最大)の温水プールが作られた。
1994年、モスクワ市長ルシコフとモスクワ総主教アレクシイ二世、エリツィン政府の代表者たちは秘密裏に大聖堂の再建を命じた。建設委員会の反対や、支持の低さを無視した決定だった。
2000年、この建設物はソヴィエトの突撃労働者の力をはるかに凌ぐ脅威的なスピードで完成した。鉄筋コンクリート造で、外国車を収納できる大きな地下駐車場、24のエレベーター、高級サウナ、レストランを備えた施設となった。
スターリンの時代に破壊され、放置されていた救世主ハリストス大聖堂の再建は、ソヴィエトの歴史の暗黒面に対する勝利の証となるはずだった。しかし、建設地そのものが、せめぎ合う記憶や実現されなかったユートピアの夢、その場所に付き纏い続ける破壊が重なり合う様子を露わにしていた。
意図的なモニュメントの再現は、過去に向けられたものではない。不死性や永遠の青春を主張するものであり、時間そのものに対する勝利を宣言しているのだ。P78
(1926年)12月28日
モスクワほど時計屋のある都市はないのではあるまいか。ここの人びとは時間のことなど重要視しないだけにいっそう奇妙だ。 (ヴァルター・ベンヤミン『モスクワの冬』藤川芳朗訳、晶文社、1982年)
Svetlana Boym 'The Future of Nostalgia', published in 2001 by Basic Booksの読書メモです。引用箇所のページ数はKindle版のページ数です。
〈参考〉
2026年4月27日
メモ
「阿賀に生きる」が公開されたのは1992年とのこと。かつて新潟水俣病の発生源となった阿賀野川周辺に暮らす人びとの生活を追ったドキュメンタリーで、1988年〜1992年ごろと思われる鹿瀬町、安田町などの集落の暮らしが生き生きと収められている。鹿瀬町も安田町も、2000年代半ばに周辺の地区と合併され、鹿瀬町は2005年に阿賀町に、安田町は2004年に阿賀野市になったよう。「阿賀」というのは、地元の人びとが阿賀野川周辺の地域を呼ぶときの呼び方らしい。行政が定めた区分や地図が指し示す特定の地域ではない、地元の人びとの暮らしや身体に根差した抽象的な地域のくくり。
この映画は、暮らしと身体が、地域と人びとが何も媒介せずに直接結びつきながら生きていた時代が、ゆっくりと終わっていく様子を捉えているように感じた。
まず目についたのは、人びとの生き生きとした身体の動きだった。冒頭、阿賀野川中流の山中の景色とともに、そこに作られた田んぼを耕しながら生活する80歳前後の夫婦(長谷川さん夫婦)が年齢表示とともに映し出されるが、加齢で衰えた身体を巧みに動かしながら稲刈りをする二人の姿を見るだけで、とても長い間ここでこうやって生きてきたのだということが伝わるようだった。また、餅職人の加藤さんが餅をつく姿も80代とは思えないほど軽やかだった。そのほか、人びとが魚を獲る様子や船に乗る様子、船を造る様子などが映されたが、自然の中で身体と動きが密接に結びつき、溶け合っているようだった。
映画の中では、「阿賀」の歴史がそれとなく語られた。あるとき、昭和電工鹿瀬工場が建てられ、3,000人を超える人間がそこで働きはじめ、人びとの暮らしが一変したこと。トラックの普及により、阿賀野川の運河としての役割が求められなくなったこと。そして、1965年に新潟水俣病が発生したこと。また、人びとの語りにも、「昔はこうだった」という表現が多く見られた。昭和電工の新潟進出については、ナレーションでは「辺境に近代がやってきた」と表現されていた。長谷川さん夫婦が暮らす地区には家が2、3軒しかなかったことから、この変化は近隣に一つ国ができたくらいのインパクトになりえただろうことが推測される。そして、この昭和電工鹿瀬工場こそが、新潟水俣病の発生源となる、有機水銀を含む廃棄水を阿賀野川に数十年流し続けていた工場であった。
登場する人びとのほとんどは80代前後で、40代、50代くらいの人もほんの少しはいた気がするが、若い人でも60歳を超えている場合がほとんどだった。彼らの子供も多くは60代だった。阿賀野川に浮かぶ船の大半を作ったと言われる元船大工の遠藤さんに弟子入りを頼み込むのも60代の人だった(この方の名前は失念してしまった……。遠藤さんはずっと素晴らしい船を作ってきたのだが、弟子を一人も取ることはなかったそうだ。しかし、この方の熱意に動かされ、船造りを教えることにしたのだった)。これらが意味するのは、これより若い世代の人びとが、この生活を受け継いでいく可能性はほとんどないということだろう。「安田町未認定患者の会」の会長の帆苅さんは、かつて阿賀野川で船乗りをやっていたため、「ダシの風」と呼ばれる安田の風の流れを、地元のボキャブラリーで非常に繊細に表現していた(あまりにもいろんな風があり、何を言ってるのかほとんどわからないほどだった)。あんな風に風を捉えられる人が今も残っているのだろうか? きつい方言や地元の労働者に口ずさまれたはやり歌は今も誰かに覚えられているのだろうか? むしろ90年代にこんな暮らしが残っていることに非常に驚いた。私の地元と方言が似ていることにも親近感を覚えた。祖母はあんな話し方をしていた。
また、政治的な主張や歴史観が明示されないことも印象に残った。それらはすべて、人びとの個人的な生を通してのみ感じることができた。
「安田町未認定患者の会」の活動や水俣病患者として未認定されなかった人びとが月に一度新潟裁判所に行く様子、加藤さん夫婦やお客さんの変形した手など、水俣病を直接想起させる描写は多くあった。当時、新潟水俣病に認定されていたのは650人程度で、2,000人を超える未認定患者がいたのだそうだ。事件から時間が経つにつれて認定基準が厳しくなったと言われていたため、歳をとってから発症した人はさらに認められにくくなっているのだろう。また、かつて魚を獲って暮らしていたという長谷川さんが、鮭の卵の漁について朧げな記憶を頼りに語っていた場面で、それを聞いていた三男が「自分も一度はこの目で見てみたかった」と言っていたことから、この漁はある時点で行われなくなり、その原因に水俣病の発生があることがなんとなく推察させられた。
人びとの暮らしを見つめる映画の眼差しから、政治的なメッセージや歴史に対する考えが極端に溢れ出ることはなかった。あくまで個人の生や語りを通じてそれとなく感じられるだけだった。
おそらく、これらは意図的な編集によるものだと思うが、それは政治性や歴史性を排除しようとするものではないのだろう。うまく言えないが、映画を通して感じられる監督や製作陣の態度から、歴史を一つの因果関係に整理することや一つの物語として定義づけることの暴力性と、ある生を「ありのままに」捉えることのむずかしさの両方に自覚的であることが感じられた。だからこそ「阿賀に生きる」は、ある語りを公式の語りとせず、そこに存在する人びとの個人の生きた語りとして繊細に捉えられていたと思う。全然言いたいことが言えていないと思うのだが、こんな風なやり方で歴史や時間に向き合えるものなのかととにかく驚いたのだった。
公式の歴史からこぼれ落ちていったもの、失われたことさえ気づかれないものついて考えをめぐらせることの意義について書かれた本を読んでいたので色々感じ入ってしまったのだった。そこにただあった生を、ただ一つの生として見つめることが自分にもいつかできるのだろうか。
2026年2月17日
Sonidos del Sol Naciente(日の出の音)
'Sonidos del Sol Poniente(夕日の音)'は下記から聴くことができます。
2025年10月18日
Through Spray Coloured Glass/From Within/子犬のテレビ
早いもので2025年も残りわずかとなりました。突然ですが今年のおさらいをします。
今年はここ数年聴きまくっていたDavid Gatesの'Through Spray Coloured Glass'をカバーしました。もともとは、Dino, Desi And Billyのバージョン(上)が、'Follow Me'というサーフィンのドキュメンタリー映画のテーマ曲として1969年にリリースされていたようです。その後、2018年になり、Gates本人が録音していたデモ(下)が、オーストラリアのレーベルのコンピレーションアルバムに収録される形で世に出ることになったみたいです。サーフィンの奇跡のような瞬間を詩的に歌っている、感動的なほど爽やかな曲です。コードはあまり理解できなかったので結構アレンジを入れています。突然転調するところとか結構ちぐはぐかもしれないですが、やってみて楽しかったです。イントロのギミックとか副旋律のオルガンとかは結構うまくいったかも。




