ありがたいことに、山田さんにドラムの音を褒められたので、アルバムを作っている時に参考にしたというか、ドラムが好きな曲を貼っていきたいと思います。
Nullified Memories' Institution
んミィ(NNMIE)の公式ブログです。
2026年7月13日
ドラムの音が好きな曲
2026年6月23日
『From Relationship To Juxtaposition』へのコメント
『From Relationship To Juxtaposition』についてコメントをいただきました。
読むだけで楽しくなるような、アルバムを聴いてみたくなるような素敵なコメントなので下記に掲載します。自分の意図していたことや意図していなかったことに言及されていて嬉しいです。
アルバムをすでに聴いている人もこれから聴こうか迷っている人もぜひ読んでください。
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ある小さな魚民を店ごと貸し切って毎年行われるんミィのお誕生日会は特にビンゴが豪華で旅行券や発泡スチロールの中でまだ動いている蟹や細い糸で織った生地が用意されているほか光沢の無いペンダントを得た常連についていくと店の裏に特殊景品交換所まで設けられている。一貫されているからこそ何かの影響がきたして数式が壊れて狂って怒られる(*1) かもしれないような一触即発のムードと、実は何の危険もなくただじっと黙って(*2) 立っていただけだったかもしれない可能性が『From Relationship To Juxtaposition』にはあり、それはんミィであり、小説についての会話などで私たちができればこうありたいと言っていた像でもあるので、仕事のあとに集まって食券形式の居酒屋へ行ったり、その流れで公園で花火をしたり、週末に2人で待ち合わせてペリメニ(*3) を食べに行ったり、その流れで土手で花火をしたり、栗拾いをした後にとんでんへ行って談笑してお手洗いに立って席に戻ったらカーペット状の床に私たちの服から落ちた棘がたくさん付着していて弁償すべきか店員さんに聞いたり、競馬に行こう行ったらこうしようああしようと繰り返し言っていた記憶はあるのになぜか行った記憶が無かったり、HUBに入ってしまい周りがうるさすぎて一言も会話せずにビールを飲んでバイバイしたり、といったことを思い出した。そしていま私はアルバムを聴きながら、これを書きながら、朝の通勤電車を引き返していて、それは駅の駐輪場に停めた自転車のホルダーに仕事で貸与されている携帯電話をセットしたままだったのを思い出した(*4) からで、私はまだ川崎市中原区の早朝の治安がいかほどなのかを知らず、まだあるのか、もう無いのか、インシデント報告書を書くことになるのか、書くとしたら発生経緯の欄にどれくらい事実を書き、その仮の事実にどのように無意味な対策を立てるか考えている時に、曲が現在の私を鎮め、未来を予告している。これは果たしてある時の音楽なのか、ない時の音楽なのか。 *1 ペップ・グアルディオラのクラブは急に0-4や1-5で大敗したりする *2 むしろ幸せに微笑んで *3 おいしかった *4 思い出したと言っても行きの電車で気づいたのではなく(*5)、 職場に着いてPCで基幹システムへログインするために二重認証が必要で(*6) わかった
*5 6:00に
*6 携帯のショートメッセージにしているから
好きな曲:「川沿い」「健忘症」「明るい夜」
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一曲ごとに、違った「まち」の景色があった。
人混みざわめく都市もあれば、生活感ただよう住宅街もある。
土地の力というのは案外強い。どんな店があるのか、どんな仕事をする人がいるのか、どんな歴史を辿ってきたのか…。そうしたものが、どうしても土地に滲み出てしまう。人の影響で「まち」に個性が生まれるのだろうけど、もしかしたら、人がどの道を選択するのか、「まち」のほうから仕向けられているのではないか?個人の意志なんかよりも、ずっと強い力が土地にはある気がする。
収録曲の「遭わない」は、そんなことを思い起こさせる曲だった。
道が多すぎる この町は 誰も遭わない
何も訪れず 風もなく 何も積もらない
どこかにまだ汚れていない
雪が残っていると思っていたのに
ひとりの何気ない感傷のようであり、移り変わる土地そのものの言葉にも聞こえたとき、私の前には茫々(ぼうぼう)とした「まち」が広がっていた。
羽純
んミィさんのこれまでのソロアルバムについて、簡素なプロダクションのそれはあくまで草稿であり、実際に鳴らされる場所を必要としていた音源だったように個人的には思う。その場所が“んミィバンド”や“金曜日”であり、脳内で豊かなイメージを付加して鳴らすことができる人にとってはtiny popという概念だったということになる。
しかし、今回のアルバムは違う。リズムや音色のディティールに細やかな配慮・配置が為され、ソングライティングの素晴らしさはそのままに作品としての結晶度が段違いに上がっている。
ひなびたメロトロン、ガットギターの豊かな響き、部屋で生ドラムを録音した質感を模したかのように丁寧にヒューマナイズを施した打ち込みが冴える「Memorabilia」や「八月」を特に気に入って聴いている。
現在、んミィさんは人前でのライブ活動を行う予定は無いとのことだが、このアルバムの楽曲は録音物として完成されており、以前のように楽曲自体が鳴らす場所を欲しているわけではないからなのかもしれない。でもよかったらまたライブやりましょう。7年前に自分から脱退したのにこんなこと言うのもあれですが、また一緒にやりたいです。
好きな曲:「Memorabillia」「八月」
山田光
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※五十音順
山田さんには、収録曲「今もどこかで」の別バージョンにサックスで参加いただいています。
下記から聴いてみてください。15分25秒くらいから流れます。
2026年5月17日
From Relationship To Juxtaposition
2026年5月16日
モスクワ・メモ
モスクワ・メモ
Svetlana Boym 'The Future of Nostalgia' のメモ
蘇る同志たち
1991年8月、ゴルバチョフが進めるペレストロイカに不満を持ったソ連の高官たちはクーデターを起こした。クーデターに反対するために行われたデモでは、人びとはチェーカーの初代長官ジェルジンスキーやソヴィエトの父レーニンの像を破壊し、ペレストロイカ以前の体制への回帰にノーを突きつけた。
ジェルジンスキー像はゴーリキー公園で倒された。レーニン像はタリンでは倒され、キエフでは剥ぎ取られ、檻に入れられた。唯一残ったのは彼のブーツだけだった。倒された像たちは最終的に同公園内の中央芸術会館の近くに移され、横たえられたまま腐敗するまで放置された。
1997年、ジェルジンスキー同志の像は、レーニンやスターリン、ブレジネフの像とともに、再び起き上がっていた。
マネージ広場ショッピングモール
トヴェルスカヤ通りはクレムリンや赤の広場から最も近い大通りである。その出発地点となっているマネージ広場は、古くから軍事パレードの開催地だった。
1991年のデモでは、そういった歴史に異議を唱えるように、この広場にバリケードがつくられ、多くの人びとが集まった。
モスクワ市長ユーリー・ルシコフは、救世主ハリストス大聖堂やポクロンナヤの丘にある戦勝記念公園の再建などを含む再開発の一環として、この地にヨーロッパ最大の地下ショッピングモールを作った。
1999年8月31日、このショッピングモールで爆破テロが発生した。この事件を皮切りにモスクワを中心とした複数の都市で同様のテロが起こるようになった。
モスクワ850周年記念式典
モスクワが記念日を祝うようになったのは比較的最近のことのようだ。モスクワが「年代記」で初めて言及されたのは、ユーリー・ドルゴルーキーの統治時代であった1147年に「新しい巨大な要塞がモスクワに建設された」という部分だ。曖昧な表現だが、これをもってユーリー・ドルゴルーキーはモスクワの開祖として扱われることになった。1847年には、アレクサンドル2世によりモスクワ700周年を祝う行事が開催された。これがモスクワ建都を記念する初めての行事だった。その次は、第二次世界大戦で歴史的な勝利をおさめたあとである1947年にスターリンによって行われた800周年記念行事だった。モスクワの伝統は、勝利や何か壮大なもののために、再発明されたものだった。
60年代後半、フルシチョフによってもたらされたモダン様式に反対し、新しいロシア的な建築に対する関心が高まった。大きな村としてのモスクワではなく、居心地がよく、気の置けない「小さなモスクワ」を求めた。建築をめぐる議論では、「コンテクスト」や「環境」といった言葉が頻出するようになった。スターリンやフルシチョフに汚され、再定義される前の、雑多なコンテクストが街をいきいきとさせていた時代に人びとの視線は向かっていった。
市長ルシコフによって企画されたモスクワ850周年記念式典は、ポスト・ソヴィエト期における最も壮大な記念行事であった。この式典は、「記憶や悲痛に関して非公式に向き合うことや都市が自然に変容していくことを終わらせようとするものだった。変化の時代やペレストロイカの時代、文化浄化や過去を悼む営み、現在や未来について議論する時間は、取り返しがつかないほど終わったように見えた」。*
*P94
countermemory──抵抗する記憶
ミラン・クンデラの『笑いと忘却の書』には、このようなエピソードが登場する。失脚した指導者の姿を、歴史資料となる写真から消し去り、彼の存在をなかったことにしようとしたとする。しかし、その編集はうまくいかず、ファーのついた帽子の一部など、彼に関わる一部分は残る。さらにそのファーのついた帽子は、おそらく他の政治家も身につけている。この帽子を目にした人は、きっと彼を思い出すだろう。そうして、この帽子は、抵抗する記憶のトリガーとして残り、公式の記憶から消されたものを示しつづける。
抵抗する記憶は直接仲間を見つけ出して連帯させるのではなく、暗に共犯意識を共有させる。「忘れられたファーの帽子」のようなものは誰の過去の中にもあり、その人物の現在を構成している。
抵抗する記憶は、単なるもう一つの真実やテクストの集積ではなく、異なる読みの実践でもある。曖昧さ、アイロニー、二重発話、秘密のイントネーションを駆使し、公式の官僚制度や政治的なディスクールに違和を示す、読解の実践なのである。P61
「これは、文字による経験ではなく、生き延びる人の道具であり、批評的な省察の基礎である」*。強制収容所やスターリンの大粛清の歴史を暴いたのはカウンターメモリーの実践者たちだった。彼らは国家権力から独立した「内面の自由」、たとえ獄中にいようとも成し遂げられるような何か、を志向していた。
抵抗する記憶はなんらかの機関ではなく、個人や非公式なネットワーク、個人的なつながりに依っている。
救世主ハリストス大聖堂
1812年のクリスマスイブ、同年のナポレオン戦争における偉大な勝利を記念して、アレクサンドル一世は大聖堂の建設を命じた。デザインについてはスウェーデン人の建築家アレクサンダー・ヴィットベルクが任せられた。彼は「全キリスト教の魂に」捧げる、ローマのサン・ピエトロよりも壮大な聖堂を夢見ていた。力強く領土を拡大していき、西ヨーロッパにおいてもリーダーシップを見せはじめたロシアを讃える石碑となるはずだった。
しかし、計画は実現せず、建築家は国家財産の横領の罪で非難され、亡命するに至った(追放された?)。この大聖堂はロシアにお馴染みの紙上のユートピア、ペーパー・アーキテクチャーとなった。
1839年、ニコライ一世は、大聖堂の建設のためにスウェーデンにバックグラウンドを持つ別の建築家コンスタンチン・トンを選んだ。彼は古代ビザンチンに回帰するようなロシア的なスタイルを約束した。ツァーリはこの新しい大聖堂の建設地として、モスクワ川を見晴らす丘の上にあり、さらにクレムリンからほど近い、壮大な場所を選んだ。しかし、そこにはすでに貴重な古いロシアの建築物であるアレクセーエフ修道院が建っていた。ツァーリの命令でこの修道院は撤去され、その44年後となる1883年、アレクサンドル三世の統治下で、ロシア最大の聖堂、救世主ハリストス大聖堂が完成した。
ロシアの美しさと偉大さの象徴となるチャイコフスキー『1812年』の初演は、1882年8月、建設中だった大聖堂の外で行われた。
大聖堂は当初、東洋的あるいは西洋的すぎると批判された。また、品がない、成金趣味だと言われることもあった。しかし、その後は人々の生活の舞台へと溶け込んでいった。ロトチェンコの有名な写真『階段』はこの大聖堂で撮影された。
その後、1920年代、1930年代にソヴィエト連邦による宗教撲滅キャンペーンが開始されると、大聖堂は強く批判されることになった。そんな流れの中、スターリンがこの土地を気に入り、「ソヴィエト宮殿」の建設地として選んだ。
1931年、救世主ハリストス大聖堂は装飾品を回収された上で、爆破された。
ソヴィエト宮殿は、ハリストス大聖堂の鏡像のような存在となった。古代エジプトやロシア正教、アメリカの高層ビルから自由に引用したデザイン、十字架の代わりのレーニン像をもって、ソヴィエトの無神論軍事イデオロギーを讃えるものとなるはずだった。
眺める者から現在を完全に忘却させるために、未来の完全さとはるか遠い過去が融合した。
しかし、ソヴィエト宮殿も紙上のユートピアとなる運命にあった。膨大な労働者が駆り出されたものの、土台を作ることさえままならず、第二次世界大戦が起こった。大地に巨大な穴があけられたまま20年の月日が流れた。湿気を放つこの穴の周りには、やがて酔っ払いや娼婦がたむろするようになった。
1950年代には、この敷地にソヴィエト最大(ソヴィエトの報道によれば世界最大)の温水プールが作られた。
1994年、モスクワ市長ルシコフとモスクワ総主教アレクシイ二世、エリツィン政府の代表者たちは秘密裏に大聖堂の再建を命じた。建設委員会の反対や、支持の低さを無視した決定だった。
2000年、この建設物はソヴィエトの突撃労働者の力をはるかに凌ぐ脅威的なスピードで完成した。鉄筋コンクリート造で、外国車を収納できる大きな地下駐車場、24のエレベーター、高級サウナ、レストランを備えた施設となった。
スターリンの時代に破壊され、放置されていた救世主ハリストス大聖堂の再建は、ソヴィエトの歴史の暗黒面に対する勝利の証となるはずだった。しかし、建設地そのものが、せめぎ合う記憶や実現されなかったユートピアの夢、その場所に付き纏い続ける破壊が重なり合う様子を露わにしていた。
意図的なモニュメントの再現は、過去に向けられたものではない。不死性や永遠の青春を主張するものであり、時間そのものに対する勝利を宣言しているのだ。P78
(1926年)12月28日
モスクワほど時計屋のある都市はないのではあるまいか。ここの人びとは時間のことなど重要視しないだけにいっそう奇妙だ。 (ヴァルター・ベンヤミン『モスクワの冬』藤川芳朗訳、晶文社、1982年)
Svetlana Boym 'The Future of Nostalgia', published in 2001 by Basic Booksの読書メモです。引用箇所のページ数はKindle版のページ数です。
〈参考〉
2026年2月17日
Sonidos del Sol Naciente(日の出の音)
'Sonidos del Sol Poniente(夕日の音)'は下記から聴くことができます。




